「八郎潟 潟語り」出版されました
聞き書きと写真をまとめた「八郎潟 潟語り」が3月29日付けで出版されました。
文章、イラスト、編集及びレイアウト補助を小西堂(小西一三、小西由紀子)が受け持ちました。
八郎潟はかつて琵琶湖に次いで日本第2位の大きさを誇る汽水湖(海水が混じる湖)でした。第二次世界大戦後、食糧増産および働き口のない農家の次男・三男対策のために国策として干拓事業が始められます。その結果、湖沼面積の90%近くが陸地となり、モデル農村・大潟村が生まれました。残りの部分は八郎潟調整池と呼ばれて今も湖沼の面影をとどめていますが、大潟村の農業用水として利用するために淡水化されています。
この干拓工事は1957年(昭和32年)に着工、水量の約90%が排水されて約6,000haの湖底が姿を現したのが昭和39年。すべての工事が終ったのは昭和52年3月のことでした。 干拓前の八郎潟は漁業が盛んで、周辺には独特の漁法や漁具、食文化がありました。しかし干拓着工から60年、豊かな八郎潟に支えられた生活の記憶を持つ人は少なくなり、その暮らしぶりや文化も忘れられがちです。
「八郎潟 潟語り」は干拓前の八郎潟を知る人たちからの「聞き書き」とイラスト、干拓着工前後の潟周辺の生活を記録した写真で構成されています。
発行元は八郎潟調整池の南に位置する曹洞宗寺院・自性院(潟上市天王)で、聞き書きとイラストは自性院が発行する寺報「自性心」に年に2回程のペースで連載され50回続いたもの。平成5年に第1回が掲載され50回目は平成29年。ほぼ四半世紀に渡って連載されたことになります。 掲載当時すでに80代、90代の方もおり、今は鬼籍に入られた方も少なくありません。今更ながら貴重なお話が聞けたと思います。
写真は自性院近くで写真屋さんを営んでおられた児玉さんが、「干拓で失われるであろう光景を記録しておきたい」と昭和30年前後に撮ったものです。
当時の写真、当時のことを語ってくださったお話、そのお話をする方たちのイラスト。それらが相まって干拓工事前夜から竣工した頃の八郎潟の光景、人々の生活が少しでも伝わればと思います。
208ページ 縦20cm×横22cm×厚1.4cm